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特別養子縁組という出会い 高度不妊治療を続けるも41歳で閉経。そこにあったのは絶望ではなく。

コラム 不妊治療

特別養子縁組という出会い 高度不妊治療を続けるも41歳で閉経。そこにあったのは絶望ではなく。

好きなことをやりつくし、次は結婚、子育て。そんな思いは一度消えかけ…「家族って血の繋がりがすべてじゃない」そんな物語です

2018.5.20

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趣味に遊びに好きなことをやりつくし、次は「結婚」「子育て」
という新しい経験を楽しもう! そんな思いで挑んだ子どもへの思いは
度重なる婦人科疾患と早発閉経により、一度消えかけ…。
「家族って血の繋がりがすべてじゃない」、そんな夫婦の物語です。




※2018年5月25日発刊「女性のための健康生活マガジン jineko vol.38 2018 summer」の記事です。


人生を楽しく生きたいのに、次々に発覚する婦人科の病


「自分を一言で表すと、楽観的で気負わない人間かな。先のことなんて誰にもわからないでしょう、アハハ」とほがらかに笑いながら愛息のOちゃん(1歳半)を見つめるMさん(43歳)。まだ分別もつかない年齢とわかっていても「Oちゃんを産んでくれたお母さんが別にいるんだよ、と常に話しています」と語るように、二人は特別養子縁組の里親と里子の間柄です。
「育児って、人間としての生き方などを“教える”ものなのかなと思っていたけど、何のことはありません。家事の延長みたいにバタバタする毎日が続く感じで」とどこまでも明るいMさん。 「こんな感動のない私の話で、誰かが幸せになるきっかけになれば――」
大学時代、あまりにひどい月経痛で救急車で運ばれるほど婦人科系に問題を抱えていたMさん。子宮内膜症のせいだとわかりましたが、当時はあまり薬に頼りたくないと何年も漢方を飲み続けました。体を温め、健康に気を使っていても毎月生理中は倒れるという生活を繰り返していた27歳の頃。いよいよ訪れたクリニックで「なぜここまで放置していたの」と呆れられ、大病院のJ病院を紹介されて即手術。かなり重症のチョコレート嚢胞だったそうです。
手術後、病気とうまくつきあいながら大好きなパリに1年暮らすなど人生を謳歌していたMさん。つきあう人にはすべて自分の持病と「たぶん子どもはできにくい」ということをはっきり伝えてきたMさんでしたが、35歳になると、またもひどい生理痛に悩まされ、起き上がれなくなり、ついには会社も辞めるほどに。
自分の体調に不安を抱えつつも、それを理解してくれるHさん(44歳)と2011年に結婚。
「夫が、できれば子どもが欲しいと言ったので、子づくりにチャレンジすることに。私はいてもいなくてもいい、楽しければどっちでも歓迎だったんです」
数カ月のタイミング法を経て、チョコレート嚢胞の手術をしたJ病院に行くと「子宮腺筋症」との診断が。こんな状態では妊娠できるわけがない、体外受精すら難しいと指摘されました。この時すでに38歳。楽観的なMさんもさすがに悠長に構えていられないと、体外受精専門のSクリニックへ。右の卵巣がうまく働いておらず、最初の採卵からすでに苦戦。Mさんは「卵管水腫」という状態で着床しにくくなっているとのことでした。それでも7度の体外受精に挑戦し、1度の妊娠を経験します。
「結局は流産で。それから何軒かほかの病院をあたるも、あなたの状態じゃもう無理って、何度か通うと断られるんです。AMHの値から卵子もほぼ採れないとわかっているし、そうこうしているうちに41歳になり、生理が止まりました。検査の結果、閉経した、と」
あまりにも早すぎる年齢での閉経。しかし実姉も同じ41歳で閉経していたので驚きはなく、真っ先に感じたのは「やっと治療から解放される!」という喜びでした。
「子どもが欲しくないわけじゃない。でも治療は本当に…面倒くさくて。そう、悲しいとかつらいとかじゃなくて。治療にかかるお金は働けばなんとでもなる。でも治療のために費やした時間は戻ってこない。これで毎月私を苦しめた生理もこない。私は次に進めるんだ!って嬉しくなりました」と赤裸々に語ります。


虐待事件に胸を痛める日々。里親になる決意と出会い


閉経するということはMさんの遺伝子を受け継ぐ子はもう望めないことを意味します。しかしMさんは「自分や夫の血を分けた子じゃなきゃ家族じゃない、という価値観がまず私にはありません」と熱く語ります。
「私が暮らしたフランスでは婚姻関係すら事実婚で、彼らは人種も肌の色も違う子どもを受け入れ、みんなで育てている。それだけでなく、養子縁組に一番興味をもったのは連日報道される幼児虐待のニュースでした」
診療を断られた病院で「養子を検討してみては」といわれていたこともあり、閉経と診断されて3カ月後には東京都の児童相談所を訪ねていました。二人は里親や養子縁組についての見識を深めるため、さらに3カ月後に行われた里親研修にも参加し、講義を受けたり乳児院を訪れるなど、半年前まで不妊治療に足掻いていたとは思えないスピードで進んでいきました。
そして閉経宣告からほぼ1年後、ついに「里親認定証」が交付され、ここから2年の間に「ご縁」があれば子どもとのマッチングが行われます。
Mさん夫妻は面談で「男の子でも女の子でもいい、外国人でもかまわない。でもいずれ同じ戸籍に入れることができる特別養子縁組がしたいので、その法律が認められる6歳以下の子ならどんな子でも受け入れる」と伝えていました。
すると里親認定からわずか1カ月後に児童相談所から連絡が。それがまだ生まれたばかりのOちゃんとMさん夫妻の運命の出会いでした。


子育ては「人育てプロジェクト」。ゆっくり愛を注いでいく


「あまりに早い展開に笑ってしまったほど」と、その時の二人の喜びは計り知れないものがあります。
まずは児童相談所の担当者からの説明があり、その後乳児院を訪れ初対面。Mさんの感想は「ふにゃっとしてる、ですね(笑)。正直まだ現実味がなくて。でもいつも寡黙な夫がやたらウキウキしていて。そしてベッドに並んで寝ていたどの赤ちゃんより可愛く見えたのは確かです」と笑顔。
そこからは面会が週三回から少しずつ増え、担当者を介さず直接「家族」だけで会えるようになり、1時間外出、半日外出、電車に乗せてみる、家に1泊する、1週間滞在する…とふれあいの時間をゆっくり増やしていきます。そして初対面から3カ月経つと、Oちゃんはもう乳児院には帰ることはありません。Mさん夫妻の家で寝起きし、二人からの無償の愛を思いっきり受けることができるのです。
「私が里親研修や乳児院で見聞きして一番衝撃を受けたのは、子どもたちは乳児院で平和に暮らしているけど“自分のもの”はひとつもないこと。洋服、おもちゃ、そしてスタッフからの愛もすべて共有。だから20歳になっても大人と一緒に寝たいと甘える子どもがいるそうです。里親を通じて、子どもはひとりの人間として人対人で関わって愛情を注ぐべきだと気づきました」とMさん。だからMさんはOちゃんのことを「息子」ではなく「彼」と呼びます。自分が子をもったのではなく「あくまでも社会の“人育てプロジェクト”の一員だから」と考えているそうです。
「不妊治療がうまくいかない=里親に、という考えは少し違うと思います。子どもは所有するものではなく、ご縁があって一緒に生きていく仲間」
この春からOちゃんの保育園生活が始まり、自らも仕事を再開したMさん。いつかはこの体験を本にしてみたい、と「人育てプロジェクト」は順調に進んでいるようです。


 



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